メールで浅川マキさんの元(?)マネージャー経営されているBar「Pignose」(京都)に行ってきたばかりの自慢話を送ったばかりなのに「浅川マキ」が死んだと、、、。
「うそっ?、、、。」
片山さんも僕も浅川マキさんには思い出がある。
もう20年以上前の話。
僕が熊本の山幸窯(山本幸一氏:やまこうさんで親しまれている)のところで修業中の頃のこと。
山幸さんの古い友達が浅川マキさんだった。
山幸さん企画で熊本県島田美術館で「浅川マキすっぴんライブ」をギャラリーでやるからおまえさんも手伝えと言わた。
「えーッあの浅川マキ、、、。」
67年「東京挽歌/アーメン・ジロー」でデビュー。翌年、新宿のアングラ劇場、蠍(さそり)座で寺山修司演出の独り舞台に出演し評判となった。山下洋輔や坂田明、坂本龍一らと共演。70年代にかけ、ジャズやソウルに影響を受けた愁いを帯びた声と全身黒ずくめの衣装で歌い「アングラの女王」として、全共闘の若者を中心に人気を集めた。代表曲に「夜が明けたら」「かもめ」などがあった。
その頃、工房に片山さんがやって来て、「僕に浅川マキさんのキター伴奏をさせてもらえないだろうか」と山幸さんに相談に来られたのだ。
浅川マキさんの面接オーディションで合格してバックでギター伴奏をすることになったのだ。
浅川マキすっぴんライブ、、、。おお、ああ、、忘れもしない。
今でもあの張り詰めた空気の中のソラオソロシイ光景が目に浮かぶ。
耳鳴りがする
ライブ当日いろいろ準備を手伝っていた僕は
「あのオバサン誰ですか?」
やまこうさん
「バカっ!!。おまえ聞こえるだろうが、、、。」
やまこうさんの目線がそのオバサンに向いた。
ささやく声で「あれが浅川マキたい!!」
うっそ~、、、。僕が知ってる浅川マキさんは
黒髪にばりばりのマスカラに黒装束にそしてタバコ、、のはず。
よく見ればそう・・本人だった。そして背筋が伸びた。
ライブ当日、僕はPAの近くで、「すっぴん」の浅川マキの歌声に酔いしれていた。
マキさんが歌っている途中、突然ボーカルの音を上げてくれとPAの方に静かに語った。
「シーン、、」
PAの担当者は会場にはいなかった。
「シ~~~ン」
それでも歌い続けるマキさん
山幸さんが僕に「ボリュームあげろ」と
うろたえる僕はただただ複雑なPAのボタンを眺めるだけだった。イコライザーに指を伸ばそうとした瞬間、誰かの手が伸びて適当なボリューム音
「キィ~~ン」
「キ~~ン」
「誰かPAに触ったでしょ?」
会場が異様な冷たい空気に変わった。
「勝手に触らないでッ」
「あなたっ、、、、、、」
会場の視線はいっせいに暗い中にPAの薄明かりに照らされている僕の顔に向けられた。
「俺じゃない・・・。」「僕は触ってない、ないない。」
小さく叫びながら
マキさんの説教に
「はいっ」、、、「はいっ」とアヤマッタ。
なんで僕なんだと思いながらアヤマッタ。
その後のことは覚えていなかった。
次の日。山幸さんが「おい。コノミくん お前さんの声しっかり録音されとったぞ!!」
「は~?」
笑い声は工房の山奥まで響いた.
最近になってヌアージュでは僕は「伝説の浅川マキPA事件」になっていることがわかった。
たまに
片山さんはその伝説の録画テープを自慢げと面白がりの二つで
客に時どき見せている。
そして必ず
「ワッハハハハ」
そんな「浅川マキ」さんが死んだ。
「あのキーーンという音は僕じゃなかったんですよ、、。マキさん」
ご冥福をお祈りします 合掌